ダライラマ六世、その愛と死
宮本神酒男 翻訳
15 貴族の娘(続)
翌日、ツァンヤン・ギャツォは、八角街の家族経営の大商店で、大枚をはたいて玉の腕輪を買い、懐にねじこみ、そそくさとパルチェンの家に向かった。
パルチェンは贈り物を受け取ると即座に腕にはめ、うっとりとしたまなざしでツァンヤン・ギャツォを見つめた。
ツァンヤン・ギャツォは貴族の娘について十分に理解しているとは言いがたかった。彼女は愛くるしくて、大胆で、世慣れていて、情熱的だった。心底彼のことを愛しているように見えたし、気まぐれに遊んでいるようにも見えた。贈り物を大切にするようにも、ありがたがっているふりをしているだけにも見えた。彼女にはふさわしい場所があったが、それはポタラ宮のなかだとも言いたげだった。そこに行き着くことはもちろんないだろう。自分が望んで行けるというものでもないのだから。
「あなたって家族のことを話したがらないみたいね」とパルチェン。
ツァンヤン・ギャツォは本当の名を明かさないと決心していたが、身分を偽ろうとも思っていなかった。ただタンサン・ワンポという名で通せるだけ通そうと考えていた。
「今晩はここに泊まってくださるわね」パルチェンは彼の手を引いて坐らせ、小声でたずねた。
ツァンヤン・ギャツォは頭を振った。
パルチェンは怪訝に思い、口をすぼめて不満を表わしながら、ツァンヤン・ギャツォの顔をのぞきこんで言った。
「あなたのお父さん、よほど位が高いのかしら。たぶんとても厳しいのね。それともお坊さんになろうとしているのかしら。きっと私が卑しいと思っているのね。だから私と仲良くしたいと思わないのね。そうでしょ? なぞなぞごっこはたくさん。ほかに考えられないでしょ。ダライラマにだってひそかに女がいたっていうのに」
「えっ……」ツァンヤン・ギャツォは息を呑んだ。彼は敏感に反応した。パルチェンはどこで自分の身分を知り、こうして遠まわしに言うのだろうか。いったん明らかになったら、どういうふうに対処したらいいのだろうか。
「驚いた? 信じてないでしょ? 貴族の子弟だっていうのに、あなたの耳には届いてないみたいね」パルチェンは得意げに言う。
ツァンヤン・ギャツォは少し冷静さを取り戻し、言っているのは自分のことではなく、ほかのダライラマのことだと気がついた。「張の帽子を李にかぶせる」的な間違いかもしれない。しかしこれが何のことであろうと、驚くべき情報にはちがいない。好奇心が沸いてきた。
「だれのことを言ってるの? 教えて」
「偉大なるダライラマ五世よ」パルチェンはうなずきながら言った。
「ありえないよ。たんなる噂にすぎない」ツァンヤン・ギャツォは怪訝な顔をして言った。とうてい信じることなどできない。
「じゃあ聞くわ。ダライラマ五世が水の竜の年に北京に行ったのは知ってるわよね?」
「そうだ、順治九年のことだ」
「京へ上る数日前、五世はデプン寺からセラ寺へ移動するとき、麓の道を歩いて、大貴族ドンメパ氏の屋敷に立ち寄ったの。ドンメパ氏、知ってるわよね?」
「もちろん。二番目のティセ(摂政)ドンメパ・ティンレー・ギャツォだろう?」
「そうそう」パルチェンはつづけた。「五世はそこで一夜を過ごしたの。ドンメパの奥さんがかしずいて」
パルチェンはそこで止めて、わざと挑発的に言った。「どうしてかしずくっていうのか、わかるわよね?」
「うん」
「じゃあ言って。どういう意味?」
「かしずく、つまり伺候するってこと。眠りのお供をするってこと」
ツァンヤン・ギャツォは全体をはっきりと、正確に説明しようとした。
そのときこのことばをどこかで見たような気がした。そういえばゲタンの日記のなかに謎めいた文言が記されていた。
「ダライラマ五世の化身であられる観音菩薩がドンメパ家にて御髪(みぐし)の上に一粒の宝珠を落とされました」
当時はこの曖昧な一節の意味がわからず、そのままにしていたが、いま考えるにこのことを指していたのではなかろうか。それにしてもこのときの自分は何の化身だったというのだろうか。もしパルチェンの家に落とすのなら、それは何の宝珠なのだろうか。だんだんわけがわからなくなってきた。
「なんですって? まだ話のつづきがあるのよ」パルチェンはつづけた。「翌年、その奥さんは子どもを生んだの。それがだれだかわかる? 当てて」
ツァンヤン・ギャツォは家族や年齢のことを思い浮かべた。そしてひとりごとのようにつぶやいた。
「だれだろう。五世の子どもというわけか?」
「そうよ、五世の子よ。摂政サンギェ・ギャツォ」
「まさか」
「考えてもみてよ。ダライラマ五世はどうして摂政が八歳のとき宮中に入れたの? どうして自らこの少年に教えたの? どうして摂政ロサン・ドゥドゥに辞職させたの? ロサン・ドゥドゥが辞職したあと、サンギェ・ギャツォが摂政の職を継ごうとしたのよ。ただモンゴルのダライ汗の反対にあったので、探してロサン・ジンパが替わりに摂政を3年勤めたけど。そのあとずっとサンギェ・ギャツォが摂政なのよ。逆に、サンギェはどうしてあんなに派手で立派な五世の霊塔を作って、盛大な法会を開いたのかしら。もういいわ。言っても無駄ね。ダライラマができるのに、あなたにできないわけがない、そう言いたいだけ」
パルチェンはそう言いながら、酔っ払った人みたいにツァンヤン・ギャツォの横に仰向けになった。
ツァンヤン・ギャツォは誘惑されたのか、説得されたのか、元気づけられたのか、よくわからなかった。おそらくパルチェンの果敢さに心を動かされたのかもしれない。彼は気づいたら彼女の体の上にのっかっていた。この貴族の娘をかたく抱きしめていたのだ。六世と五世、ツァンヤン・ギャツォとタンサン・ワンポ、仏と人、もはやその間に区別はなかった。区別する必要などなかった。
ふたりはしばらくの間、時を忘れて愛し合った。
パルチェンは聞いた。「明日また来てくれる?」
「来るよ」
「今度は何をくださるの?」
「贈ったばかりだろう?」とツァンヤン・ギャツォは彼女の腕にはめられた玉の腕輪を指した。
「これはね、あいさつの贈り物。今日また……」
彼女に対する尊敬の気持ちが萎えかけた。ふたつがひとつになった心が離れていくような気がした。もし彼女が心を重んじ金銭にかまわないなら、ツァンヤン・ギャツォはかえって惜しみなくお金を費やすだろう。ダライラマがお金の心配などすることもないだろう。
「私ってまさか、この腕輪ひとつの価値しかないの?」
ツァンヤン・ギャツォは失望を禁じえなかった。もともと愛情など必要なかったのだ。金だけ出せばよかったのだ。そう考えると、この貴族の娘はこの腕輪の価値もないのではないかと思うようになった。いや、お金があればあるほど愛情も深くなるということはありえない、と彼は結論づけた。彼はパルチェンを傷つけたくはなかった。どういうつもりで彼女がこのようなことを言うのか、確かめたかった。
「じゃあ、何が欲しいんだい?」
パルチェンは笑った。長い間じっと考えて言った。「高貴なものが欲しいわ」
ツァンヤン・ギャツォは心の中で舌打ちした。こんなことを言えるのは、高貴でない人だけだ。あなたは私を試そうとしているのか。私があなたを試そうとしているのか。
そのとき突然階下からだれかが叫んだ。「タンサン・ワンポさん! タンサン・ワンポの若旦那!」
パルチェンは門を開けた。そこに立っていたのは肉屋のタルチンだった。
「どうやってここにいるとわかったんだい」ツァンヤン・ギャツォは問い詰めた。
「急ぎの用事です!」タルチンはしきりに手招きした。「ちょっと降りてきてください」
ツァンヤン・ギャツォは下に降りると、タルチンに大門まで連れて行かれた。大げさな身振りをしながらも、小声で言った。
「ポタラ宮の人があなたを探しています。即刻戻ってください」
「何が起きたんだい?」
「聞いたところでは、ダライ汗がなくなり、息子のラサンが汗王に就いたそうです。摂政サンギェはゲタンを肉屋に派遣し、あなたに儀式に参加するようお願いしたのです」
ツァンヤン・ギャツォは大きなため息をついた。
「彼らが完全に私のことを忘れてくれたならなあ!よし、戻るとしよう」
そう言って体を回転し、門からパルチェンにさよならを言い、彼はポタラ宮に向かった。
これは康煕四十年(1701)のことだった。
ラサン王子がラサン汗になり、モンゴル・ホショート部の首長となった。このことはチベットの政治の世界では一大事で、ダライラマ六世と摂政サンギェ・ギャツォは多忙の数日を送ることになった。ツァンヤン・ギャツォに関していえば、だれが汗(ハーン)になろうと行事の一番前に参列するだけの話であるが、摂政となると、一粒の不吉な種が兆したということなのだった。彼は早くからラサン汗を敵視していた。というのは、彼はありきたりの政治家ではなく、勢力旺盛で、政治にも情熱を注ぎ込んでいたからだ。ラサン汗はふたつの王牌を持っていた。すなわち康煕帝の支持とグシ汗から受け継がれた特権である。
サンギェの手にあるのはダライラマ六世だけだった。さらに不安にさせたのは、サンギェは中国皇帝の怒りを買っていたうえ、ガルダンを失い、現状維持をはかり、守勢に回るのが精一杯だったことだ。
ラサン汗の勢力は日ごとに増し、サンギェへの注意は怠ることなく、攻勢の機をうかがっていた。サンギェがこの状況の危険性に気づかないわけではなかったが、自分から後退することもできなかった。もし彼がダライラマの宗教方面の威信と行政方面の権力を利用すれば、ツァンヤン・ギャツォを政治・宗教のリーダーとして育て、第一線に立たせることによって、自身は不測の事態を免れることができるだろう。実際、彼は気づかなかったが、だれにも現状を変えることなど不可能だったのだが。サンギェはダライラマに権力を持たすことなどできなかったし、ダライラマ六世も政治・宗教に心酔するなどありえなかった。それぞれ頑なに自分たちの軌道を走っていた。交差点でぶつかっても、それを避けることはできなかった。
ツァンヤン・ギャツォはまたパルチェンの屋敷に来ていた。
パルチェンは恨みがましそうに言った。「どうして最近来てくださらなかったの?」
「急なことがあって忙しかったのだ」ツァンヤン・ギャツォはすまなさそうに言った。
「もう何日も待ちぼうけをくらっていたわ」パルチェンは軽く彼を叩いた。「何か持ってきてくれたかしら」
「情(こころ)を持ってきたよ」ツァンヤン・ギャツォは会話を楽しんでいた。
「中身のない情(こころ)でしょ」
「中身がない?」
「さぐっても、つねっても、何もない。食べられないし、着られない。四角いの? 丸いの? 金? 銀?」怒涛天を衝く勢いでパルチェンはまくしたてた。
「こんなものなのさ」ツァンヤン・ギャツォは座布団の上で凝り固まった。
「あなたの愛情なんてこんなものなのよ」パルチェンは唇を尖らせた。
「いくらでもお金を費やすことはできる。けど愛情を買うためのものではないのだ。買った愛情なんて紙でできた花のようなもの。風が吹いたり、雨が降ったりしたらもうだめさ」ツァンヤン・ギャツォはなお言い争うとしていた。
「じゃあ、あなたと紙の花にお別れを言わなきゃね」パルチェンはなお冷淡だった。まだ怒っているようだった。
「そうだ、お別れだ」ツァンヤン・ギャツォもまだ腹を立てていた。
「いますぐ出て行って」パルチェンは声を荒げた。
「おまえは貴族の娘だ。教養ぐらいあるだろう」
「教養ですって? 本当に教養のある人はただで白鳥の肉を食べたりしないわ」パルチェンは両手を腰にあて、怒りの目を見開き、まったくの別人に見えた。そして迫る勢いで言った。「行くの、行かないの?」
「もし行かなかったら?」ツァンヤン・ギャツォはわざとらしく聞いた。その実、ここにいたって、彼はこれ以上ここにいたくなかった。落胆、悲しみ、むかつき、そういったものが一気に押し寄せてきた。咲き誇っていた花が突然貪婪な雌オオカミに変身したかのようだった。まだ恋愛の情は残っているだろうか。もしこの場を離れたら、二度と彼女とは会わないだろう。
「本当は行かないつもりなのね。でまた私にまとわりつくのね。私なりの方法があるわ。私が冷たくするからって悪く思わないでね」パルチェンはまるで最後通牒を述べる女王のようだった。
ツァンヤン・ギャツォは興味を持ち始めた。この芝居じみた声はどこから出てくるのだろう。そこでわざとらしく聞いた。
「もし行かなかったら、どんな方法があるというのだい?」
「手紙を書くのよ。扁平頭の摂政様宛に。タンサン・ワンポという貴公子が、摂政様がダライラマ五世の私生児だと言いふらしてるって」
ツァンヤン・ギャツォは驚いた。こんなやりかたは思いもよらないものだった。すぐに彼は反論した。
「それはおまえが言ったことではないか。それをどうしてぼくのことにするのだ?」
「あなたが私におっしゃったのよ」パルチェンはきっぱりと言った。同時に疑わしく、屈折した表情を浮かべ、演じている風だった。彼女はさらに付け足した。
「それに証人を探して証言させることもできるわ。何月何日、どこどこで、左手の人差し指をポタラ宮の方向に突き立てて、偉大なるダライラマ五世を侮辱したって」
「もうたくさんだ」ツァンヤン・ギャツォは叫んだ。彼はこの若い娘が白と黒をさかさまにしたような作り事にこれ以上つきあいたくなかった。彼は帽子をつまみ、階段を降り始めた。
「また来るおつもり?」パルチェンは冷笑しながら聞いた。
「いや」ツァンヤン・ギャツォは彼女を一顧もせず、門から飛び出した。
路上でも彼は何も見なかった。ポタラ宮に着いてすぐ俗装を脱ぎ捨てた。彼はどのように、いつ戻ってきたのか、それすらもよく覚えていなかった。
数日間、彼の心は四季のように急速に変化した。このときに彼は数多くの詩篇を書き記した。パルチェンとの出会い、熱愛、懐疑、そして愛想を尽かしたこと。それらを順序良く並べたら、さぞ立派な叙事詩ができあがっただろう。少し飛びすぎていたかもしれないが、変化の過程を反映しているだろう。
いくつかの詩をわれわれは見ることができる。
身分の高い貴人の娘
うるわしく、つややかで、美しい。
まるで桃の木のずっと上で
透き通るほど熟した果実。
白い歯が笑みからこぼれ
月のような瞳が一座を見渡す。
その目尻から放たれた光が
若造の顔に落ちる。
嫣然とこぼれる笑顔が
わが魂を奪って逃げた。
それはほんとうの愛情なのか
誓っておくれ、本心の愛だと。
幸運がめぐってきたら
祈りの旗を立てよう。
名門の才女がいるという
その家の宴に至らせよ。
表面が凍った川の上
馬が走るには適さない。
いましがた交わった新しい友に
心の底を打ち明けることはできない。
娘の肌は玉のよう
やわらかい心を包み込む。
その気持ちは本当なの?
少年の宝を騙し取ったりしないよね。
川の水は深いのに
魚はみな釣られてしまった。
愛する人の口には蜜、腹には剣
心はまだ捕らえられていないけど。
百の木のなかから
この楊柳を選んだ。
若輩の私は知らなかった
木の芯がはや腐っているなんて。
東から山に上ったとき
見えたのはジャコウ鹿
西山に来て見えたのは
びっこをひく黄色い羊
愛する人に本当の愛情はない。
まるで泥でできた菩薩のよう。
まるで間違って買ってしまった
走れない馬のよう。
愛する人は心の魔術師。
花が落ちても赤色が残る幻術のよう。
どんなに色仕掛けで迫っても
もはや心は受け付けない。
花は開き、まさに落ちる。
愛する人の表情が豹変する。
私と金色の蜂の絆は
いまここで分かたれる。
ここにはあきらかに、彼とパルチェンの複雑な感情が表れている。幸福の絶頂から疑い、そして怒りから痛みと後悔。この貴族の娘との絆が切れた頃、彼は彼女のことを金色の蜂と呼ばずにはいられなかった。そうしなければパルチェンへの思いを断ち切ることができなかったのだ。
情の多い人には四つのものがつきものだ。すなわち、善良さ、憂愁、それに詩と酒。ツァンヤン・ギャツォはこのときから酒をたしなむようになった。とはいえ宮中で飲もうとは思わず、タンサン・ワンポという名で酒店に出没するようになった。彼が通った酒店はポタラ宮のすぐ下のショルといわれる地域にあった。その店は、三つの寝室のような部屋が連なっていた。短い卓があり、座布団があり、酒壷と酒椀が置いてあった。十分衛生的で、装飾も凝っていた。主人の名はヤンゾン、四十すぎの女だった。彼女によって、ツァンヤン・ギャツォは恋愛の網を撒くことになる。